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小河川(堀)について ←五ヶ字用水記念碑と用水口 |
日川(にっかわ) |
白岡町岡泉、実ヶ谷より端を発し、蓮田市江ヶ崎・長崎を流れ古ヶ場を経て上野堺から元荒川に注ぐ。黒浜、江ヶ崎、長崎、笹山の主要排水路である。 |
| 山城掘 | 昔は黒浜溜井より上野(上里地区)平野への用水路であった。戸田山城守の堀削により、山城掘と名付ける。黒浜沼の落し掘りも兼ねる。里上野1丁目辺りで沼田掘と合流。沼田掘を堀削、山城掘を連結した。 |
新 堀(現在は手前の側溝のみで埋立てられた) |
一番元荒川より。山城掘同様、黒浜・江ヶ崎・笹山耕地の落し掘り。9尺の箱掘り(通水敷地のみ土上げなし)。黒浜19町耕地が冠水で排水路に悩み、排水路を沼田掘につなぎたいとの申入れがあった。しかし、沼田耕地は低地で他領の排水受入は不可とした。それで、元荒川堤防よりの高地に黒浜耕地の排水路を掘削したのが新堀である。堀は三段扉を設け調整した。 当時の三段扉による水争いは、厳しい現実があった。堰板(せきいた)3枚で排水を調整するが、上流は一枚でも多く外してもらいたい、下流は一枚でも余計に置きたいので意見一致しなかったので実力行使もあった。当時の名主善助氏は自分が死んだあとも三枚扉を守るといい、墓所を三段扉の見える邸内高台に埋葬した。 |
沼田堀(現在は上野3丁目と2丁目の堺で暗渠になる。 |
沼田耕地中央で、六番七番耕地の堺を流れる堀。 上野地内上流、古ヶ場に端を発する堀で、中央を直通して表慈恩寺堺苗寄橋より松山下を大きく湾曲して晃氏宅(セブンイレブン)西側を経て一男宅前より直線で長沼耕地に流れる。 沼田掘は大きく湾曲し、崖下地形の松山下は排水不良で、このため苗寄橋より御成街道への直進化は上野・古ヶ場の沼田耕地耕作者の悲願でした。関根竜良氏は古隅田川理事就任に伴い、古隅田川上流工事に組入れ、同土地改良区工事として完成させた。 |
五ヶ字用水路(元荒川より台地下にのびる) |
上野3〜4丁目・5〜6丁目を通り、4〜5丁目元荒川堺より用水を取り入れ、光一氏(入)裏にて用水機で吸上げ、肇氏(上宿)のダイエー倉庫の下を直径2mのヒューム管が埋設されている。管は御成街道を横断し竹内氏(電気)の下を貫き、内耕地の水管(導水開口ヒューム管)に連ねた。この工事により内耕地(慈恩寺・表慈恩寺・裏慈恩寺)だけでなく上野耕地の用水不足が解消された。 |
![]() 諏訪下用水(現在のヨークマート北側) |
上野3丁目辺りで受水、新堀下流を経上野地内にて横断、諏訪下地内に注ぐ。 諏訪下地内を潤し花積まで送る延々たる長さがあった。その長さのために他の利用を固く禁じられ、陸田は時間を限り使用との申合わせがきつく、汲線陸田利用者は早朝のみ用水機を動かした。 下割橋際にある拙宅水田は五ヶ字用水に入っていたが、実際には諏訪下用水の組合費も納入する二重負担をしていた。水が必要な水田でもあったので目をつぶり利用したが、他の諏訪下組合員からは盗水と言って非難を受けた。両用水組合の接点に位置する者の悲哀であった。 |