| やまた園芸>郷土史top>宿道(しゅくみち) | |
| 宿道について | |
| 上野は、南に南辻、北は古ヶ場、東は表慈恩寺、西に荒川を隔てて河合江川に接する。古来より南北に長く、北から騎西・菖蒲を経、岩槻に通り遠く鎌倉に至る。 特に上野中央を南北に貫く通称宿道は重要な鎌倉街道と呼ばれ、いざ鎌倉(謡曲鉢の木より)の武士団の主要な道路であった。 北白岡には関東八平氏の流れ野与党の鬼久保氏一族が勢力あり、その北に古河公方(敵方)、並立する騎西城、菖蒲城があり、これらの豪族が競い合って鎌倉に集合した道が宿道である。 |
鎌倉街道: 鎌倉源氏三代〜前北条氏十五代より足利管領家まで、政治の中心が鎌倉であった。 当時の岩槻には、町内に渋江氏、河合に金重氏箕輪氏、和戸に多賀谷氏須久毛氏がいた。 宿とは集落の意。 |
![]() 古道:宝生院入り口より北を望む |
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| 上野は里と野方に大別できるが、今は上・中・里の三地区(昔は三耕地といった)に分けられる。 里地区は江戸期(特に幕末)に野方(上・中)より移住した家(種ヤ、畑中、素麺ヤ)と分家した家(山長→目医者、中宿→機ヤ)で成る。 |
江戸中末期より 素麺ヤ(清司氏)-晃氏-一男氏 種ヤ(義秋氏)-義信氏 畑中(覚良氏)-形ヤ -宇一氏 -一夫氏 目医者-畳屋 -運送ヤ-経夫氏 |
| 宿道の経路: 北、古ヶ場(加藤竹雄氏)山崎新次郎氏の東側を通り、関根光晴氏傍で東北から来る六尺道と合流する。合流点に庚申塚あり。 南に下り、野方最南の埋葬墓の下を通り厚澤米屋の西(下)より通称松山下の崖地の裾を通り、赤坂下で御成街道に出る。 別説では、沼田掘りを渡り御成街道に出ず五番耕地から赤坂団地東を通り、屋根ヤ裏の荒川土堤に出る、辻橋を経て岩槻町に至った(昔、荒川は屋根ヤ西で南辻の方に迂回していた)。 |
南辻:春日部道(新井医院より八幡様に至る道路と旧鎌倉街道(御成街道)との十字路を以って辻と称した。加須の北辻に対し南辻と称した。 南平野も上平野(蓮田市)に対し南を冠した。これは昔の道が大きな川沿いに出来たためだろう。北平野(大利根町)元和村。 ex.豊春南中曽根→久喜北中曽根 鴻巣市西中曽根 |