やまた園芸郷土史top>宝生院について
 
・埼玉県 武蔵国南埼玉郡上野村字八番(現:さいたま市岩槻区上野5丁目)
・本 寺 :埼玉県北葛飾郡内國府間村正福寺末寺
・新義真言宗智山派
・本 尊 :不動明王
・境 内 :290坪 官有地第4種
・檀 徒 :262人 内戸主50人
・正式名称:医眼山宝生院西蓮寺
・現在の本堂:間口6間奥行5間 客殿:間口2間半奥行5間
由緒について:伝によれば、天正19(1591)年創建。
後北条氏滅亡(天正18年)岩槻城落城(天正18年5月から6月)。鷲宮神社創建も同年とか。

 しかし、埋墓には康正(1455)寛正(1460)応仁(1467)銘入りの板碑(石塔婆)の出土からも、創建以前に寺院が存在し祭祀をを行い信仰布教活動を行っていたことが伺える。
 また、岩槻城主太田氏房の有力家臣関根勝直家の子大炉助満親が、幼年より当宝生院に入り修行した故事からも大寺院であったことがわかる。

両墓制:宝生院では「両墓制」という関東地方、特に埼玉では数少ない伝統があります。
 人は命尽きればこの世から消えます。しかし魂魄コンパクは永遠に残ります。この理念が知らず知らずに根底を流れ、死ぬと45日忌までに埋墓より詣り墓に土を運び、魂が移り、また家と子々孫々を加護し続ける荘厳な死生観、七生報国しちしょうほうこくの念というべき思想は、大いなる理念でもあります。
 埼玉中部、東部にかけては3ヶ所(桶川市・岩槻区古ヶ場・岩槻区上野)のみです。特に、古ヶ場・上野の両墓制は古来の風習をそのまま現在も受け継いでいる貴重なものです。民俗学的にも価値のあるものなので、文化遺産として今後も継承されるよう郷土史研究者からも指摘を受けました。

注)魂魄コンパク:「魂」は「たましい」、「魄」は浮遊霊の意味。
  七生報国しちしょうほうこく:「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」との意味
准坂東八十八ヶ場:江戸中後期には、四国八十八ヶ所霊場 ・ 関東八十八ヶ所霊場・秩父三十三ヶ所や講(大山石尊講、榛名講、秋葉講、成田講、伊勢講、戸隠講、富士浅間講、御嶽講)がおこなわれた。
准八十八所は、鴻巣・吹上・桶川・久喜・菖蒲・白岡・宮代・騎西などの地域に明和5(1768)年に札所が成立した。この中で、宝生院は准八十八所の五十番札所です。
太子講:宝生院は歴史ある大寺院であったが、大火や敷地縮小を余儀なくされ、寺宝をも失ったことはたいへん惜しむべきことです。しかし火災にあっても住民の努力により焼失を免れてきました。
 仏像として、不動明王、弘法大師、興教大師、阿弥陀如来立像・座像、薬師如来、聖徳太子があります。
聖徳太子は産業振興に尽くしたので、今でも建設業者は太子講として太子を祭り加護を願っています。上野地区でも商工業者が多かったためと思われます。(札所=参詣して翌年またお礼に参詣すること)

8月14日施餓鬼
宝生院歴代住職
第一世 不詳      
第二世 盛廣 宝永3年9月17日寂 1706年  
第三世 舜寧 享保20年3月16日 1735年  
第四世 秀正 宝暦8年3月18日 1748年 幸手正福寺25世住職の墓石あり、引退後当寺に入ったのかもしれない。
第五世 寛奉 寛政13年1月6日 1821年  
第六世 真慧 明治18年9月11日 1885年 明治20(1887)年3月3日 本堂(間口8間奥行5間)、薬師堂(間口3間奥行2間)焼失後、無住。明治27年7月 薬師堂再建(間口9尺奥行2間)
第七世 宥真 昭和15年7月〜昭和19年10月9日退任 1940年 昭和10年5月 本堂再建(間口5間半奥行3間)後安楽寺(日勝)福沢宥真師兼務住職。
第八世 隆恭 昭和19年10月9日 1944年 西福寺(南平野)兼務
第九世 隆宏      
年中行事
1月1日〜3日 初詣。もとは氏神をお参り祈願するものであったが、神仏習合が進んだ江戸時代に定着した。今は恵方にかかわらず初詣しますが、江戸期は神仏信仰が強く、人々はその年の縁起のよい方向である恵方の神社・寺にお参りした。縁起物の破魔矢は、魔である煩悩を破ると言う意味がある。
2月3日 節分(立春・立夏・立秋・立冬)。立春の前日。宝生院では行っていないが、他の寺神社は盛大である。
追儺:中国で唐時代から福を招く行事として行われ、日本古来の豆打ちの行事と合わさって行われた。
3月18日から7日間 彼岸。彼岸とは、仏の世界、悟りの世界であると説かれる。
4月10日 十日念仏。清明(4月5日頃)から穀雨(4月20日21日頃)に万物清新の気が溢れ、春雨が田畑を潤し春夏作の準備が整い、農事の始まりに一年の無事安泰を願う日です。
4月21日 千地蔵。弘法大師の御影供ミエイク(御命日)。智積院の三代目化主(住職)となった日誉上人ゆかりの西光院(宮代町)は御影供寺として有名。
 お地蔵様を讃える歌「生みなさぬ ものとてはなし 土の徳 きよう ひとしおに 仰がるるかな」
生むとは育てることを指し、どんな汚いものでも一度土の懐(ふところ)即ち「地蔵」に抱かれると清らかな水になり、肥沃な土となって物を育てる。人間のみにくい煩悩も一度地蔵菩薩の教えに触れると皆浄化される。この仏は立派なお堂の中よりも、街の辻、人の行くべき道、心の迷い路の六道の辻に立ち、行方を教えます。六道とは、人間が迷いやすい地獄、餓鬼畜生などの六方向である。
 特に、地蔵菩薩は辻に立ち、庶民を救う尊い仏である。
 あの世で、幼い子どもを地獄の責苦から護る仏である。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のため」とこの世の父母を偲んで意志を積み重ね供養修行をし、鬼がこれを壊す。子どもらは泣きながらまた石積みを繰返し、鬼の責苦より護るのが地蔵様です。
 上野宝生院の千体地蔵詣りは、来世の安穏な暮らし安らぎの心を得て、去年の施餓鬼から今年の施餓鬼までの一年間に亡くなった方の後生を葬い安楽な成仏を願うものです。近隣の地蔵尊を回りお礼(お参り札)を捧げて回向する目的があります。またこれは相互扶助、助け合いの精神の表れでもあります。良い風習は守るだけでなく、心の支えにもなっています。
5月8日 花祭り。お釈迦様誕生の日。正式には「潅仏会」「仏生会」
釈迦は紀元前463年に印度北部にて生まれ、すぐに7歩歩み天地を指し「天上天下唯我独尊」と宣告すると、天は花を散らし甘露の雨を降らせて誕生を祝福した。これが釈迦に4月8日に甘茶をかける由来となっている。
8月13日〜15日



盂蘭盆ウラボン(お盆)。釈迦の弟子目蓮の母が地獄に落ちた時、逆さ吊りにされ飢えと渇きにもがき苦しんだ。目蓮はそれを救うために7月15日に供養した。飢えた先祖への供養であるので、盆棚には食べ物が豊富に供えらる。
13日は先祖の霊が火の灯りとともに家に戻るので、庭先で麻幹(おがら)で火を焚く。これが迎え火。16日は祖先の霊が帰っていくのでまた火を焚く、これが送り火である。
 
日本には仏教と別に現在の8月半ばに一族が集い収穫物を祖先に捧げる先祖祭りの風習があった。これが盂蘭盆と習合して現在のお盆となったと言われる。
8月14日 大施餓鬼。
9月19日より7日間 彼岸。
10月12日 鉦番御斎カネバンオトキ。
古来より続く宝生院独自の行事。おおむね念仏講員の女性が本堂ご本尊前で交代で鉦を叩き御念仏を唱える。仏を供養し、現世の加護を祈念する。秋の農繁期を控えての農休日でもあった。
 
独自の習俗が継続されてきたのは、住民の信仰心と先祖崇敬の念の表れである。また長期にわたり先代までの住職と指導者が、住民の心の涵養に携わったからとも言えます。先人の心根が偲ばれます。
12月27日〜29日 納めの大掃いオサメノオオハライ。
一年の安泰に感謝し、新年への御加護を祈念し大掃いをします。
宝生院には慈覚大師(慈恩寺開創の祖)の歌があるが、宗派が異なり時代も千年以上のずれがあります。
「老いはなほ 若きも 我を頼むべし 
   病
(やも)ふの床(ゆか)の 死苦(しく)を救(すく)わん」